(2024.11.8)
先に、インドの魔女狩りのニュースを貶したけれども、基本的に私はインドの皆様に何かモノを教えようなんて一切思ってないです。
ネタばかりではなく、比較宗教学の見地から道場のテキストは、仏音の『清浄道論』とパタンジャリの『ヨーガ根本聖典』あとは剣なので武蔵の『五輪書』あたりかな。武蔵は五大を語りながら人を大勢斬って(もしくは木刀で叩き殺して)いるので、武蔵をどう解釈するのかも含めて修行となる。「阿修羅」の解釈等。ヨーガ根本聖典も私が真似をしているとかじゃなくて、見てみると、似たような事も書いてある。
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ヴァーチャスパティ・ミシュラの注釈によれば、上昇するというのは、炎で始まる道によって上昇することをいう。「ウパニシャッド」には、死後、火葬の炎から日や月や太陽北行の六か月など、様々な世界を通ってブラフマンの世界に達し、再びかえらない神路が説かれている。…
(世界の名著1『ヨーガ根本聖典』(中央公論社))
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ちなみに、私は今この箇所を読んで書いているのであって、『ヨーガ根本聖典』も細々と読んでいないからね。自式風水と似ているけど、なんか自式というのもおこがましくなって来たよね。五大の配置と外出なので大体同じになるんだよ。
ただし、『ヨーガ根本聖典』にも日本訳だが、大袈裟なのか唯識論に依拠しているのか?という箇所もあるし、例えば「空中浮遊」の記述があるが、こんな事を書いたら日本だとビルから投げられそうだよ。「YouTubeやテレビで撮るからやってくれ」と。この日本訳がどこまで正確なのかね。絶対そうなるだろ?「やってくれれば、世界中の信心に決定的な影響が出るのに、皆信者になりますよ。何故やってくれないんだ?」となる。ちなみに型で「縮地」を述べたが、縮地は日本武道にも見られるけれども、剣技を当てはめて解釈するなら「地」なので足技と上昇が関係する理屈になる。しかし「不知火」の後なので、この段位ではもう剣を捨てている場合もあるだろう。剣を極めたい集まりというより、それは個人の勝手な目的だが、剣を利用(得物)して修行するという事だ。
『ヨーガ根本聖典』で間違っている箇所というのは、例えば、
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刹那とその(刹那の)連続とに総合的制御を行えば、識別から生ずる知が(あらわれる)。刹那は時間の最小の極限で、原子が前の場所を捨てて、後の場所に到達するのに要する時間をいう。前の刹那から間断なく後の刹那のおこることが、連続である。二つの刹那は同時にはおこらない。同時におこる二つのもののあいだには、連続はありえない。現在においては唯一の刹那があり、前後の刹那はなく、刹那の結合はないのである。しかし、過去・現在・未来のどの一刹那においても全世界は転変する。刹那は転変と不離に結びついている。ゆえにすべての現象は、現在の刹那のなかに存在する。このような刹那とその刹那の連続との両者に総合的制御を行えば両者が直観され、その結果として、すべてのものについて識別から生ずる知があらわれる。
(世界の名著1『ヨーガ根本聖典』(中央公論社))
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限界時空の解釈に似ています。
「刹那は時間の最小の極限」
刹那を限界時間と定めたのでしょう。
「原子が前の場所を捨てて、後の場所に到達するのに要する時間をいう」
原子というのは最小単位という事なので、光速を考えてみて、そうです。次の限界時間に次の場所に移るイメージです。
「前の刹那から間断なく後の刹那のおこることが、連続である」
限界時間を考えていいような気がします。
「二つの刹那は同時にはおこらない」
厳密に述べると、同時の絶対性より他の消失時空も鑑み、「おこるというわけでもおこらないわけでもない」ですが、限界時空で他の時空間が消失しているとして、対象物体の時空間のみに着目し同時にはおきないと言えます。これは昔なのに、驚くべき記述です。通常の絶対的空間の感覚だと、目の前に二つのボールABがあるとして、二つのボールの刹那は同時におこり得ると考えます。
「同時におこる二つのもののあいだには、連続はありえない」
通常の絶対的空間の感覚だと、ボールABはその空間を連続していると思います。限界時空で考えると、ボールAの限界時空はA,Bの限界時空はBとなり、互いに消失するので連続ではないですので、そうです。
「現在においては唯一の刹那があり」
間違っています。対象物体において刹那があります…
「前後の刹那はなく、刹那の結合はないのである」
と、間違っていると思ったら、その前後は刹那ではない。結合もしていない、という事を言っていて限界時空に似ています。
「しかし、過去・現在・未来のどの一刹那においても全世界は転変する。刹那は転変と不離に結びついている。」
限界時間の経過毎に世界は変わっていくと解釈出来ます。
「ゆえにすべての現象は、現在の刹那のなかに存在する」
ここが間違っている感じの記述です。”すべての現象”と言っているからには、世界の様々な物体の諸現象の事で、それが”刹那のなかに存在する”という表現がどうか。この言い方だと0次元の方がしっくりきます。光粒子はそれぞれ無数の刹那を構成しています。この言い方だと世界、宇宙を単一で捉えている印象を受けます。全現象は、共通して有している一刹那に包含されている、というように。任意の対象物体を取ったにせよ、一刹那の中に現象が含まれているという包摂関係で捉えるというより、相補関係という方がしっくりきます。上の言い方だと、現在の「有」の中に全ての「空」なる現象が存在する(含まれている、集約する)と読めます。つまり「有」の下位が「空」という包摂関係となってしまう。なので、これだと「すべての現象は、時空間無のなかに存在する」の方が精度が高い印象を受ける表現ですが、「すべての現象は、時空間無のなかに存在するというわけでもしないというわけでもない」が正確です。
*仏教との真我の論争はここら辺りか。調べてないので分かりかねます。何にせよ、仏教や道教の「無」を時空間無と決めつけてはいけません。それを己で見出すのが修行です。
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なので、日本訳がどうなのか。この言い方は、パタンジャリが本当に最高神と解脱まで辿り着いたのかな?と、懐疑的に読んで修行の材料にすべきです。彼に限らず、なんでもワケもわからず信じ込んで盲信すべきではない。
ちなみに「オーム」は日本で貶められましたが、「a,u,m」と三聖音をあて、三相(ダルマ、法)を三神で表し、三神一致を説いているのでしょう。キリスト教の三位一体と全く別です。法(ダルマ)という最高教理、摂理、宇宙原理を最高神と崇め、
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彼(最高神)は、太古の人々(師匠たち)にとっても師匠(グル)である。何故ならば、(最高神は)時間によって制限されないからである。
彼をあらわすことばは、聖音(「オーム」)である。
(世界の名著1『ヨーガ根本聖典』(中央公論社))
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法理に単に人格を与えているだけというより、解脱に至った人間を法理と化した(一致した。梵我一如)最高神と解し崇拝しているのです。時間に制限されないというのは、拡張解釈より、時空間の大きい世界(上の世界、天界)、上の天界の住人では無いという理屈です。天界だとどんなに上の世界でも、拡張解釈ならば、時空間(と輪廻)の内でして、仏法だと「苦集滅道」の法の内に存ずるという理屈です。
やはり、円錐の拡張解釈を鑑み、修行の観点だとインド思想は無視出来ません。仏音も卓越している印象を受けますが、兎に角、比較宗教としての指針は上記挙げたい。武蔵にしろ、おっかないけど「どうして五輪を語るのかな?」と、風水場の兼ね合いより学習に有益な存在です。斬り合いは宗教の修行法理から完全に大きく外れますが、その書物より、彼は決して粗暴な人間ではないです。
まとめると、在家修行者というのは、人生の始めでも、中程でも、終わりでも(どの年齢帯の方でも、自分も)、修行環境を整えることが、皆が参加しやすいようにする、そのように働きかけることが極めて肝要。